普天間基地、9000人も住んでいたか?
宜野湾市の資料、それに基地反対派のとあるブログにある航空写真。これを対比するに、普天間基地建設で壊された大きな集落として宜野湾と神山があるが、基地の外にも幾つもの大きな集落がある。宜野湾市の資料にある戦前の集落等の位置を示した地図からすると、戦前でも集落は基地の西側、海岸寄りの方に多かったようだ。軽便や主要道も、こちらを通っている。基地の敷地は台地上の所に位置し、田畑がほとんどのようだ。 昭和15年当時の宜野湾の人口が12000人、基地建設後の昭和25年には15000人。琉球新報の言うように、9000人がこの基地内に住んでいたとするならば、同市の基地周辺部分の人口が3000人から15000人に、5倍に増えたことになる。交通の便が良い海岸寄り平地の部分の人口が10年間で4~5倍に増えたのであれば、大集落の数、規模が劇的に拡大しているはずであるが、それを示すような航空写真は見たことがない。 無人の原野ではなかったし、集落は点在していたものの、「9000人が住んでいた」というのは誇張である可能性が高い。3000人程度が相場であろう。
戦前、「田畑以外何もないところ」ではなかったが、当時の宜野湾村の人口12000人の4分の3が集中していたところでもなかった、とするのが妥当だろう。 ここにあった3集落に団地やビルがあったというのなら別だが・・
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